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お産の家便り 2006年
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2006年12月 [平成18年12月4日]
12月クリスマスツリー(拡大)
おしゃべりの部屋にクリスマスツリーを飾りました。

2月から更新をお休みしていました。

2月、福島県で帝王切開後の母体死亡のため産婦人科医が逮捕される事件が発生しました。これは、私にとって衝撃的な事件でした。医師とくに産婦人科医を職業とするものの中には、私と同様に感じた人も決して少なくなかったようです。私の中で壊れるものがあり、その月は更新の気力を失い、その後も書きあぐねていました。

そして、あっという間に1年が過ぎました。この間、医療をめぐる厳しい現実についての報道も増加していますが、状況に改善の兆しは見えません。

年末までの1ヵ月、今年をふり返るつもりで、月をさかのぼりながら、記憶をたどり、書くことができなくなってしまっていた便りを書いてみようと思います。

今年の明日香医院のお産の総括をするにはまだ早いのですが、今年もまた、波瀾万丈、苦しいことも多く、悩み抜いた年でもありました。と、同時に嬉しいこともたくさんありました。

12月 庭のモミジ(拡大)
なにより嬉しかったことは、今年は昨年にも増して、たくさんのリピータさんのお世話をさせていただいたことです。昨年は69名のリピータさんをお世話させていただき、うち、明日香医院で3回目というかたは9名ありました。今年は年末の予定日までで74名、うち、明日香医院で3回目というかたが14名、4回目というかたが3名ありました。また産みたいと思っていただけること、そしてそのときを共有する医療者として私たちを選んでいただけること、お産をお世話させていただくことを仕事としているものとして、これ以上の喜びはないと感謝しています。

昨年秋にお世話させていただいたかたから嬉しい便りをいただきました。一部を紹介させてください。


お産のときは大勢の助産師さんに見守られ、その後もおっぱいケアを何度もしていただきました。小さく生まれ、おっぱいを上手に飲めなかった娘は、いつの間にか「大きいね」と誰からも言われるようになり、無事に1歳の誕生日を迎えることができました。こころより感謝申しあげます。
昨今の産科医・小児科医不足の問題には、お世話になるものとして胸が痛みます。先生がた、スタッフのかたがたの負担を減らすために私たちができることは、みずからも健康で、丈夫な身体の子どもを育てることではないかと考えております。
またリピーターとしてそちらに通う日をこころ待ちにしています。くれぐれも健康にご留意くださいませ。


本当にそうだと思いました。産む人がすこやかな身体とこころを持ち、すこやかな妊娠期を過ごし、すこやかな赤ちゃんを安産する、そしてすこやかに子どもを育て、子どもはすこやかに育つ。もちろん、どんなに願っても、努力しても、そのようにならないことはありますが、それでも、まず、すこやかに生きることから始まる。

12月 侘び助椿(拡大)
私たちは、そのすこやかさを見守り、少し不都合があったときには、できるだけのことをさせていただく。そんなふうにシンプルに生きられれば、どんなによいことでしょう。そういう生き方の中にしか、未来はみつけることができません。

そして、私たちは、産む人にこのように支えられ、励まされているからこそ、この仕事ができていること、仕事の中に喜びを感じられることにあらためて気づきました。ありがとうございます。

今年も侘び助が咲いています。李朝のとっくりに生けました。
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2006年11月 [平成18年12月5日]
11月アロカ社超音波診断装置α10(拡大)
現代の技術革新の波は、産科においても医療機器を進化させ、明日香医院のように小さな診療所にも変化をもたらしてくれます。せっかくの技術革新であり、そのお陰でよりすぐれた機械が作られるようになったわけですから、自然なお産をよりよい形で支えるべく使用したいと考えます。

そんなわけで、この秋、明日香医院は、9月の便りでご紹介した無線式分娩監視装置端末についで、経腹用の超音波診断装置、経膣用の超音波診断装置を買い換えました。さらに、主として助産師が胎位確認に使用するためのポータブルタイプの経腹用超音波診断装置も新規購入しました。わずかな期間に数枚の売買契約書に立て続けにサインをしていると、買いもの中毒になった気分でした。

けれども、同時期に複数の機械の導入は、たまたま、それぞれの機械が発売されたり、それを私たちが使いたいと考えたりするタイミングが同時であっただけなのです。とはいえ、たとえば、経腹機も経膣機もいずれもアナログ機からデジタル機への機種変更であることが象徴しているように、数年経つと機械の買い換えが必要になってしまうほど技術が進歩しているという背景があります。また、今後数年は対価の支払義務が発生しますので、その間、お産を続けていくことを自分自身に課し、みずからを励まそうという気持ちもあって決めました。

それにしても、九段の出張時代に導入し、結局8年間使用した経腹の超音波診断装置には強い愛着がありました。当時は血流計測(カラードップラー)ができるようになったばかりで、その機能を備えた最新機種でした。数年前にデジタル機が発売され、データのデジタル処理が可能になったため、二次元データの画質、とくに深いところの見え方、脂肪が厚い妊婦さんの場合の見え方などが進歩しました。また、二次元データを積算して3次元画像を作る3D機能もめざましく進みました。さらに、カラードップラーの機能も格段に向上しました。

よく見えるようになれば、診断能力は上がるのか、そして、それが分娩および胎児の予後(医療の結果)の改善にどれだけ貢献するか、さらに費用対効果を考えたときに有益であるかなどは、難しい問題です。また、機械は日々進歩します。そろそろ機能の高い機種に買い換えたいと考えつつも、そのタイミングや、機種の選定などについて、この2年あまり迷っていました。最新の上位機種は、機械が大きいため、診察室の改装が必要になることも問題でした。

いよいよ決心して、この春から3D画像にすぐれたGE社(オーストラリア)と、2Dおよびカラー画像にすぐれたアロカ社(国産)の2メーカーのそれぞれの最上位機種を複数回デモさせてもらって比較検討しました。さんざん考えたあげく、10月中旬、アロカ社・α10を選びました。

機種選定で迷っていた理由は、3D機能を導入するかどうかでした。現在のところ、3Dは診断に有用というより、むしろ、胎児の「顔見せ」が目的です。GE社の3D機能は優秀で、条件がよいと、赤ちゃんの表情が本当によく見え、実にかわいいです。

けれど、3D画像を得るためには専用プローベが必要で、それは私が片手で持てないほど大きくて重いのです。やむをえず両手で16秒間動かないように保持し、その後、画像処理を行います。腕がしびれそうになる上に、どんなにうまくやっても、最低5分はかかります。赤ちゃんの向きなどによっては、うまく見えないこともしばしばです。毎回の健診で「見せてください」と言われたら、外来を止めたくなるでしょう。といって、「妊婦健診中1回だけご覧に入れますよ」というのも、なんだかなあと思います。世間には、検査技師さんが別枠・別料金で3Dを担当している施設もあります。それもよいアイデアだと思いますが、明日香医院では不可能です。

アロカ社の3D描出力は、GE社に比べて、格段に落ちます。また3Dプローベは、非常に高価で、そのお金があれば、経膣用の超音波装置の買い換えが可能でした。そこで、診断を優先することに決め、アロカ社の機械を3Dプローベなしで購入することに決めました。

機械が高機能になった分だけ、操作は複雑になり、導入後しばらくは、機械の操作に悪戦苦闘しました。これは、携帯電話と同じと想像していただければ、わかりやすいと思います。以前の機械にはできなかったことができるかわり、以前なら簡単にできたことが、できなかったりもします。メーカーの技術の方になんどもご足労もいただきました。

操作に慣れてきた現在、格段に解像度がよくなり、よく見えると実感しています。私は、3年ほど前から、胎児の心臓のスクリーニングを試みています。買い換えの最大の目的は、こういったスクリーニングの精度を上げることでしたが、その目的は達することができたと思います。その結果、たとえば、胎内診断ができていれば、よりよい状態で救命できる可能性のある赤ちゃんをこれまで以上の確率で発見し、専門家に手渡せるかどうか、これは、やってみないとわかりませんが、努力したいと思っています。

どこまで診られるか、診きれるかわかりませんが、現在は、私の診断能力が上がるかもしれないという可能性で、気持ちが救われています。買い換えて本当によかったと思っています。
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2006年10月 [平成18年12月5日]
10月12月の栗林(拡大)
長い残暑と長雨の末に、ようやく秋がやってきました。蒸し暑い日や、朝から暗い日ばかりが続いていたので、朝目覚めたとき、日ざしがあざやかに明るい日は、ほっとして嬉しくなります。

お向かいの栗林は収穫の時を迎えています。この時期だけ、庭先に小さな売店を開いてくださっているので、私たちもまさに「地元産」の栗を手に入れることができます。栗は9月に早生から始まり、10月が最盛期です。利平という大粒の栗は、ほくほくと甘くて本当においしいです。そして11月末、冬の訪れとともに、販売は終了します。

一昨年からは焼き栗の販売も始まりました。香ばしくておいしいので、おすすめです。販売量が多くないため、午後には売り切れてしまいます。午前中早めの時間の外来を予約して、おみやげに買って帰ってくださいね。

なんて書いていたのですが、書き終える前に、今年の栗は終わりになりました。ないとうさんの栗は年ごとに人気が出ているようで、今年から予約制となり、焼き栗は10月中旬に、そのほかの生栗も10月末を待つことなく、完売となったそうです。私は、仕事に紛れているうちに、とうとう、焼き栗を手に入れることができませんでした。利平栗は手に入れることができたので、試しにグリルで焼いてみたところ、とてもおいしい焼き栗になりました。

皆さん、来年は早めに予約して、ぜひ、どうぞ。また、グリルでの焼き栗もお試しください。
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2006年09月 [平成18年12月6日]
9月上に無線端末アバロン、下に分娩監視装置本体をとりつけた椎名製モニター・カート(拡大)
明日香医院では分娩監視装置(モニター)の無線端末を導入しました。これは、最近の産科医療機器としては画期的ではないかと私は思います。

分娩監視装置による分娩時の連続モニタリングは必ずしも必要ではありませんが、陣痛が始まったときや、それまでより強くなったときは、胎児の状態を知るために必要です。また、陣痛促進剤を使用しているときや、胎児の状態が心配なときは、異常を早く発見するため、行った方が安心です。

これまで、胎児の心音を聴く心音計と子宮収縮を測る陣痛計の端末(トランスジューサー)は、コードで監視装置本体につながっていました。そして、伸縮ベルトをお腹に巻き付け、端末がずれないようにくくりつけていました。とくに心音を聴く位置は、数センチずれてしまうと聴き取れなくなります。そのため、分娩監視装置による連続モニタリング中、産婦さんはベッドに仰向けに寝かされてしまうことがふつうです。

このため、機械に縛りつけられてお産をするなどと表現されてしまうこともありました。また、分娩監視装置本体からナース・ステーションにデータを飛ばして遠隔で見張るなどということは可能であったため、助産師や産科医は産婦のそばにいないで、機械だけが産婦さんのそばにいて監視しているような光景も少なくありませんでした。

明日香医院では、助産師が1対1で付き添っているため、横向きになったり起きあがったりして、端末がずれそうになっても、そのたびにずっと手で調整して保持していました。したがって縛りつけているという表現はあまりふさわしくないにしても、それでも、監視装置をつけたまま、室内を動き回ったり、ましてや歩き回ったりすることはできませんでした。そこで、モニター装着は必要最低限にを、いやがおうでも心がけることにもなっていました。

今回導入したアバロンは、端末内にトランスジューサーと送信機が内蔵されていて、分娩監視装置本体に無線でデータを飛ばすことができます。100メートル程度の距離まで受信可能な高性能であるため、院内はもとより、いざとなれば栗林までの散歩も可能です。お産を急ぐとき、トイレで誘導したりするのですが、そのときの移動も容易です。防水構造のため、お風呂でも装着できます。陣痛促進剤使用時、急いでお産をすすめたいときなど、産婦さんも、お世話する私たちも、動きを妨げられることが少ないため、非常に助かっています。

連続モニタリングが苦痛でなくなったということは、産む人にとって画期的なことです。だからといって、モニターをつけっぱなしにしたり、産婦さんを機械に任せて放っておくことはしませんが、必要なときにより快適にモニタリングできるようになったのはありがたいことです。

以前から、心電図の端子のようにお腹にぺたっと貼れて、無線でデータを飛ばせるような端末ができるといいなと思っていました。願っていた装置に近いものが開発されて嬉しいです。こういう機械こそ、もっと早く発明されるべきでした。ちなみに無線端末はフィリップス社製、監視装置本体はヒューレット社製です。

メーカー既成のカートはぶかっこうなのと、床でお産をする私たちには背が高すぎるため、椎名さんにお願いして、お弁当箱型のモニター台に、端末受信キットをとりつけてもらいました。なかなか珍妙な風情となりました。
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2006年 8月 [平成18年12月6日]
8月 ドッグ&ヒト・ラン (拡大)
少しお産のお休みをいただいて、去年と同じ、箱根に出かけました。箱根は、東京から近く、いざとなったら高速を使って2時間以内で帰れること、ポール(飼い犬です)も一緒に泊まれる宿があることが理由です。日本の古典的観光地だけあって、美しくて楽しく、奥深いところです。

去年は箱根の中であちこち美術館巡りをしましたが、今年は天候に恵まれなかったこともあって、ホテルでのんびり過ごしました。

ホテルの庭は大変広く、庭のコテージに犬連れ客は宿泊します。庭の片隅にはドッグ・ランがあり、この中ではリードを外して犬が走り回ることができます。

8月 正面が安産杉(拡大)
では、ドッグ・ランに入ればポールが喜んで走り回るのか、というと、決してそうではありません。リードを外すと、最初の3分くらいは夢中で走ります。その後、自分だけ走っていることにはっと気づくと、立ち止まります。そうなると「さあ、走ろう」と声をかけただけでは動かず、自分のまわりの草などをのんびり探索。そこで、一緒に走ったり、追いかけっこをしたりすると、実に楽しそうに走ります。そのうちに、私が走っても、仕方ないなあと言わんばかりにいやいや走るようになるので、おしまいにして、帰ります。遊んであげているのか、遊ばれているのか、わからなくなって複雑な気持ちです。

芦ノ湖の湖畔に立つ箱根神社には、瓊々杵命(ににぎのみこと)と木花咲耶姫(このはなさくやひめのみこと)の出産の神話に由来する安産杉があります。源頼朝は御台所政子の安産を祈願したとのこと。私も明日香医院でお産なさるかたの安産をお願いしました。
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2006年7月 [平成18年12月6日]
7月おしゃべりの部屋に飾った七夕飾り(拡大)
今年は院内に七夕の飾りをしました。6月末のある日、分娩室横の竹林の1本を切り、おしゃべりの部屋の柱にくくりつけ、外来にいらしていただいたかたたちに短冊に願い事を書いていただいて、飾りました。七夕の日がやってくる頃には、いろいろな願い事がちりばめられて、見た目にも楽しい様子になりました。それぞれの願い事はかなったでしょうか。

この仕事をしていると、日々、新たな難題が目の前に現れます。ひとつのことをようやく解決したり、乗り越えたりしたと思ったとたんに、これでもか、というように、現実を突きつけられます。それだけで精一杯で過ごしているうち、季節を楽しむことなど忘れてしまっていることに気づき、愕然とします。ある日、庭の花が咲いていることに気づき、明日天気がよかったら一輪切って生けよう、そんなふうに思っていたのに、気がついたらその花の季節が終わっている。たとえば、そんな感じです。

考えてみれば、季節ごとの行事は、日々をいとおしんで感謝して暮らすようにという知恵なのに違いありません。ほんの少しのゆとりを持って暮らしたいとあらためて思います。
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2006年 6月 [平成18年12月9日]
6月 庭の花:キンシバイ (拡大)
産科医が減り続けています昨年9月の便りにも、日本中のあちこちで産科医が減っていることを書きました。その後、事態はさらに進行しています。

昨年の夏ころ、私は、とてもあせっていました。当時、産科医がどんどん減り、各地の病院で分娩の取り扱いが休止されはじめていることは、一般にはあまり知られていませんでしたが、すでに足元から崩れはじめていることは、内部にいればよくわかりました。今なら何とかなるかもしれないと思ったり、何ができるのだろうと考えたりしていましたが、当然のことながら、名案などなく、ましてや私のできることなどありませんでした。

7月に吉村正先生にお目にかかったとき、「このままでは、大変なことになる」と話すと、彼は悠然としたもので、「これまでも、大変だ、大変だといわれたことは、たくさんあった。けれども、結局、たいしたことになっていないから、大丈夫」との意見。そうかもしれないなあとも思いました。

けれども昨年秋ころから、ますます、状況の悪化がはっきりしてきました。どうしようもないことはあきらめて、全体の行方を憂うことは止めよう、そして、明日香医院のお産を維持することだけを考えようと思いました。

そんな心境でいた今年の2月、衝撃的な事件が起こりました。このところ、治療の過程で起こった患者の死亡などについて、民事だけでなく、刑事事件として医師や看護師が責任を問われる事件が増加していました。けれども、刑事事件といっても、在宅での書類送検・起訴がほとんどで、逮捕・勾留される事例は、きわめて限られていました。

2月18日、福島県で産婦人科医師が逮捕されました。帝王切開時の母体死亡に対し、業務上過失致死と、それを異状死として警察に届けなかった医師法違反を問われたものです。その後22日間勾留され、3月10日起訴、その数日後、保釈されました。これを書いている12月現在、公判前整理手続き中で、来年1月に初公判が開かれることが決まっています。なお、公判前整理手続きというのは、公判を円滑にすすめるため、検察側と弁護側が資料を出しあい、裁判官とともに事前に協議する制度です。

この逮捕時件に対し、産婦人科医のみならず、医師の間に大きな波紋が起こり、警察や検察、厚生労働省の姿勢に対して批判の声が上がりました。私も強い疑問、反発、理不尽さや怒りを感じたひとりです。

まず、怒りは、なぜ逮捕でなければならなかったのか、ということです。逮捕されたK医師は、福島県立医大の産婦人科医局に所属し、福島県立大野病院に派遣され、勤務していました。ひとり医長といって、地域の中核病院であるその病院の産婦人科医は彼ひとりでした。この病院の年間分娩数200件は、ほぼ彼ひとりでこなしていたことになります。分娩数では、明日香医院とほぼ同じ規模です。このほか、婦人科手術なども行っていたはずです。月に何回かの週末は、派遣元の県立医大から代診の医師が来てくれて休暇が取れたようですが、それ以外は原則として、24時間なにかあれば呼び出されるオンコール体制でした。

逮捕は土曜日、病院の休診日、前日に続いて呼び出された警察署内で行われたそうです。警察から知らされたマスコミが、警察から裁判所に移送される彼を待ちかまえていました。テレビカメラや新聞社のカメラが多数待ちかまえる中、手錠をかけられた手と顔を着衣や布で隠した彼が、左右を捜査官に挟まれて警察の車に乗せられました。そして、福島では、当日も、その後も、その光景が何度も繰り返し放送されました。

同じ専門職として、見るたびに胸が痛む映像です。このような形で逮捕劇が演出されてもよいのでしょうか。大衆はそのような映像を求め、喜ぶのでしょうか。この国にもはや礼節はないのでしょうか。

証拠隠滅や逃亡の恐れがあるとき、在宅の書類送検ではなく逮捕にするそうです。けれども、事故はすでに福島県の医療事故調査委員会が調査し、彼は減給処分を受けていました。したがって証拠を隠滅することは不可能です。また、事故後1年余、彼はその病院で黙々とひとり医長として勤務していました。かつ、彼の妻は妊娠中で予定日も間近でした。そんな人が逃亡する可能性があるでしょうか。

同業の仲間が医業の結果、まるでさらしものにされるようなやり方で逮捕され、けれども、それに対して、どうすることもできないという悲しみや怒り、無力感、絶望感にさいなまれた医師は私だけではないだろうと思います。それは理屈を超えた感覚です。私の中で、なにかが音を立てて壊れたようでした。

この逮捕時件を最初に知ったのは、インターネットでした。インターネットがよくも悪くも私たちの情報や思考にとって大きな役割を果たしていることをあらためて実感しました。

当時の私は、恥ずかしながら、民事裁判と刑事裁判の区別さえ、よくわかっていませんでした。けれど、前置・癒着胎盤の帝王切開手術の結果、大量出血し母体死亡となった症例が、なぜ逮捕になるのかが理解できませんでした。そこで「いったい何が起こったのだろう、なぜ逮捕なのだろう」という疑問から、インターネット上で情報を集めているうち、ある医師専用掲示板をきっかけに発足したばかりの医師有志による支援グループの存在を知りました。当時メンバーは100人足らず、メーリングリストを使っての情報交換が始まっていました。そのグループに参加したのは、逮捕後数日後のことでした。

その後、おもにネットを通じて事件が知られるにつれ、グループに参加する医師が増えました。産科のみならず、すべての科にわたっていました。皆、一様に逮捕に驚き、事故の状況を知りたいと思っているようでした。外科系をはじめ日々の診療そのものにリスクを抱える医師は、人ごとではなく、明日は我が身との気持ちもあったと思います。

当時、私たちが得ていた情報は限られていました。メーリングリスト上では、福島県の医療事故調査委員会が作成した調査書に基づき、産科や麻酔科の専門家たちが議論しました。亡くなった妊婦さんは本当にお気の毒だけれども、精一杯の医業の結果、結果論に基づいて刑事事件として逮捕することは不当であるというのが、皆の意見でした。

さらにもうひとつ、私にとっては衝撃的な事実が明らかになりました。逮捕されたとき、K医師の妻は臨月でした。初産です。そして、彼の勾留中に出産なさいました。

接見は弁護士だけに限られ、家族の面会は許されていませんでした。彼は、産科医でありながら、獄中で妻の無事な出産を祈ることになったのです。そして、子どもが生まれたという事実を弁護士から伝えられるほかなかったのです。夫婦にとって、どんなにつらい日々だったことでしょう。事故後1年余、警察は、まさにそのタイミングをねらって逮捕したのでしょうか。その卑劣さは、筆舌に尽くしがたいと思いました。

いったん起訴されてしまえば長期にわたる刑事裁判が始まります。そして被告となるK医師と家族の人生はこれからも大きく損なわれ続けることになります。当時の私は、逮捕されたら、95%以上起訴されるなどということは、まるで知りませんでした。ともかく不起訴として、一刻も早く彼を取り戻したい、私より10歳も若い彼の医師としての未来を取り戻したいと強く願いました。

そこで、3月第2週末の勾留期限をにらみ、「K医師を支援するグループ」の抗議声明文に対する医師の賛同署名をインターネット上で集めることを提案し、その集計係を引き受けました。支援グループへの参加者も、いつのまにか450名ほどになっていました。

署名は3月6日の午後9時に開始し、3月8日に締めきりました。署名集めを開始してみると、医師の反響は予想以上に大きなものでした。今回は署名を医師だけに限るため、支援グループメンバー、あるいは、その紹介を受けた人だけに限ったのですが、それでも週はじめのたった50時間で800名近い医師の賛同署名を得ました。専門分野、所属、医局などの境界を越え、これほど多数の医師が、これを看過してはならないと強く感じていたのでした。

そして思いもかけず、人のこころの温かさをたくさん味わうことになりました。私を見かねて、見ず知らずの医師たちが手伝いを買って出てくださったのです。集計を手伝ってくださるかたや専用のウェブサイトを作ってくださるかたがありました。また、賛同署名のメールに、温かいメッセージを添えてくださったかたもたくさんありました。その数日間は、診療以外の時間をすべてそれにあてることとなり、ほぼ不眠不休で作業することになりましたが、それは誰のためでもなく、私自身の救いになりました。

6月 庭の花:ルリヤナギ(拡大)
ここまでやった以上はと、声明文の発起人にも参加させていただくことにしました。3月10日午後、外来を終えた私は、署名集計担当者の最後の仕事として、K医師が勾留されている福島県富岡署、福島県警本署、いわき地方裁判所、福島地方裁判所、福島県立医科大学学長、同病院長、同産婦人科教授、内閣総理大臣、法務大臣、厚生労働大臣、各党の党首・代表、新聞社各社の東京本社と福島支局、NHK、福島テレビなど、思いつく限りのところ32か所に、私の住所、氏名、電話番号を記載した手紙を添えて、声明文と署名簿をファックスしました。産休中の秘書さんも赤ん坊連れで出勤して手伝ってくれました。眠っていなくてぼうっとした頭で、ただ、送り続けていた午後5時、起訴を知らされました。あのときの悲しみや無力感を今も鮮明に思い出します。

起訴前にも、ごく一部の医師団体から抗議声明が出ていました。起訴後はこの動きが拡大し、福島県立医大の産婦人科医局を中心としたインターネット上の署名運動が行われました。また、新生児関係の学会や、産婦人科医会(産婦人科医の医師会のようなものです)・日本産科婦人科学会(産婦人科の学会です)も合同で逮捕を疑問とする声明を出しました。権威のある団体がK医師の支援に乗り出し、K医師の長期にわたるかもしれない裁判を支えてくださるであろうことになった経過に、もし、私たちのような勝手連的活動が少しでも役に立っていたかもしれないと思うことで、少し気持ちが楽になります。時間の経過とともに、マスコミの論調も、当初のように一方的にK医師を責めるものから少し変わってきているようにも見えます。

お陰様で、さまざまな勉強をさせてもらいました。医療を刑事事件として裁くことが、世界標準ではないことも知りました。医療者の世界観と法律家の世界観が重なり合わないらしいことも知りました。裁判でものごとの本質を明らかにすることができるわけでもないことも、よくわかりました。

今回の事件は、検察・警察・厚生労働省・県のそれぞれの思惑がはからずしも重なった結果ではないかと想像しています。K医師はスケープゴートになってしまわれたことを大変お気の毒に思っています。今後の過程で、産婦人科集約化や無過失賠償責任など現在議論されているさまざまなことのスケープゴートとして、さらに利用されてしまうことになりませんようにと祈っています。

2月当時、1日に10回くらい、お産を止めたいと思いました。そのたびに、お産なさるかた、お産を終えたかたの笑顔、赤ちゃんのかわいさに、励まされ、やっぱり私はお産が好きなのだと思いました。今は、少しでも長く続けられる工夫をして、いましばらく、お産のそばにいたいと思っています。

6月は私の誕生月です。来年の誕生月、どんな気持ちで日々お産に向き合っているか、また、書いてみようと思っています。
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2006年 5月 [平成18年12月9日]
5月主のいない誕生日(拡大)
この5月、ひとりっ子の長男が20歳になりました。とうとう、とも思いますし、あっという間だったとも思います。

今年、彼の誕生日は、母の日でもありました。私は郷里の母たちに花束とお菓子を送りました。ささやかなものなのに、とても喜んでくれるのが本当に嬉しいです。実家の近くには弟一家が住んでおり、一抱えのカーネーションを持って訪ねてきてくれたとも聞きました。

子どもは大学生になりましたが、自宅から通学のため、一緒に暮らしています。授業には行ったり行かなかったり。けれども、クラブのために学校には毎日出かけます。帰宅時間も不規則で、友人と食事を済ませて帰ることも多くなりました。もともと背丈が伸びるばかりでやせっぽちでしたが、大学生になってから、ますますやせた様子で、骨の上に洋服を着ている様子は、まるで、衣紋掛けのよう。もっとたくさん食べてね、と母は祈ります。また、学校まで自転車で30分かけて通う日もあり、帰りが遅いときは、道中の安全が、本当に気がかりです。

相変わらず、かわいくてたまりませんが、彼の方は、おかあさんが彼のことをこんなにかわいいと思っていて、いつも、いつも、心配しながら、祈りながら見ていることなど、まるで気づいていないかのように見えます。それでいいのだと思います。

20歳の誕生日当日、早朝から彼は将棋の試合に出かけたまま、とうとう、翌朝まで帰ってきませんでした。誕生日にお祝いの夕食をともにしないのは初めてのことでした。用意したお祝いのケーキは、翌日のおやつになりました。気がついたときには、こんなふうに子どもは大きくなってしまっていました。

子育ての日々、先が見えなくて、つらくて泣きたくなるときもありましょう。よく考えてみれば、本当は喜びの方が多いはずなのに、つらいことはこころに重いのです。目の前のことにとらわれてしまうと、どうしようもないがんじがらめでさらにつらくなってしまいますが、どうかそんなとき、どんなときでも子どもはおかあさんが大好き、世界中で一番好き、おかあさんがいてくれるから元気で過ごせる、そして、子どもはいつか必ず育つことを思い出してください。

抱っこをせがむ子どもに、「今ちょっと手が離せないからあとでね」と、なんども答えてしまったことを、子どもに抱っこをせがまれなくなった今、私はせつない気持ちで思いだしています。そんな用事など、本当はどうでもよいことでした。そんなふうに甘くせつない時間を思い出しながら、ときどき、ソファにいる子どもの頭をなぜてみます。そして、やっぱりかわいいと思うのです。

子どもと一緒にいられる時間は決して長くありません。どうぞ、日々をいとおしみながら、大切に楽しんでくださいますように。
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2006年 4月 [平成18年12月9日]
4月 高井戸の桜 (拡大)
4月はやはり桜です。今年は3月の終わりから咲き始め、4月に入ったときには、すでにほぼ満開でした。高井戸の神田川沿いの遊歩道の桜は、年を追うごとにみごとになります。今年も連日出かけて楽しみました。

ところで、2月にとても嬉しいお産がありました。明日香医院は開院して今年で満7年、出張で出産のお世話を始めたときからだと、満9年になります。この間に、最初のお産をお世話して、2番目をお世話して、そして3番目もお世話させていただいてと、3回のお世話をさせていただいたかたは何人かありました。そして、とうとう、4回目のお産をお世話させていただくかたが現れました。

最初のお産からずっと安産で、女の子、その下に男の子がふたり生まれ、すこやかに育っています。4人目の予定日は2月19日。今回も、健診は必要最低限の頻度でさせていただいていましたが、心配しなければならないようなことはなにもなく、私は、ただ、お産を楽しみに待っていました。健診のとき、ご本人が「4回目だからと言って、油断しないで、気を引き締めないと」などとおっしゃってくださるのが、頼もしい限りでした。

予定日より4日ほど早い夕方、陣痛は始まりました。1年生のお姉ちゃんは、弟たちが眠ってしまっても、一生懸命おかあさんの腰をさすり、はげましていました。「赤ちゃん、弟か妹か、どっちが出てきてくれるかなあ」と問うと、「女の子が生まれてくることしか、考えていないもん」と答えが返りました。今度こそはと、妹を切望していたようです。

4月 6人家族になりました(拡大)
そんなふうにがんばって起きていたお姉ちゃんが、深夜、とうとう、力尽きて眠ってしまったとたんに、陣痛が強くなり、生まれてきたのは男の子でした。ああ、やっぱり、お姉ちゃんに悪くて、彼女が起きている間には生まれなかったのですね。朝になって目を覚ましたお姉ちゃんが、「弟でもいいよ」と言っていると聞いて、私はほっとしました。

1か月健診のとき、おかあさんから伺ったお話です。おかあさんが食事の仕度を終え、「いただきます」となったとき、赤ちゃんが泣き出したのだそうです。すると、お姉ちゃんは、「私が赤ちゃんを見ているから、おかあさん、ごはん食べてね」と言ってくれたのだそうです。「そんなふうに育ってくれていて嬉しい」と話してくださいました。
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2006年 3月 [平成18年12月9日]
3月泣かないようにするために・・・(拡大)
1月26日、鈴木重子さんの「風のフォーラム」をお手伝いしました。その様子は、川畑深雪さんによる風のフォーラム2006レポートをお読みください。

私にとっての圧巻は重子さんのライブによる「お産のフォトストーリー」でした。1月の便りでも書いたように、明日香医院のペアレンツクラスや院外で宮崎雅子さんによる明日香医院のお産の写真をご覧いただくとき、重子さんのやわらかな歌声が似合います。そして、今回のライブでの共演はまったく感動ものでした。宮崎雅子さんにも会場で観て、聴いていただけて、本当によかったと思っています。

これにはちょっと裏話があります。当日の朝の時点で、進行中のお産が2件ありました。2件ともすでに長引いていました。さらにうち1件は、やや厳しい状況となっていました。本来、お昼には出かけてリハーサルに参加することになっていましたが、とても間に合いません。本番さえも心配な状況になってきました。

そして、厳しい状況の方の赤ちゃんが、なんとか元気に生まれたのが午後1時過ぎ。それを見届けて、フォトストーリーを収めたマッキントッシュのパソコンを持って助産師2名がリハーサルのため先発。私は、なおまだ、お産後の母子から離れられない状況でした。

リハーサルで私が何を気にしていたかというと、写真と歌の時間がぴったり合うかどうかでした。重子さんはそのために3曲歌っていただけるになっていたので、合計所要時間を聞き、それに合うようにあらかじめ写真の枚数と送り速度をパソコンに設定してスタッフに託しました。

ようやく生まれた母子も大丈夫そう、生まれていないもうひとりは、当分生まれない見込みだったので、私も出かけました。そんなわけで、本番30分前に会場に到着し、かろうじて、どこから舞台に出て、どうやって引っ込むかの練習だけができました。

フォトストーリーのリハーサルに立ち会った助産師によれば、初回は重子さんの歌が早過ぎたけれども、2回目はちょうどぴったりだった、ばっちり、大丈夫ですとのことで、一安心。

ところが本番、重子さんはあまりにもゆっくり歌いました。2曲目の途中くらいから、ますますゆっくりになりました。私は、まるでマッキントッシュが勝手に全力疾走で写真を早送りしているような錯覚に陥りそうでした。私たちは内心あせっていましたが、それにもかかわらず、歌は相変わらずゆっくりでした。写真が終わってしまっても、まだ3曲目は途中でした。写真が終わってしまって、しばらくしてから歌が終わりました。なんだかほっとしました。

あとから本人がおっしゃるには「リハーサルのとき、写真を見ながら歌ったら、泣いてしまって歌えなくなりそうになった。だから、見ないようにして歌っていた」とのことでした。そうだったのですね。

後日、会場にいらしていたかたにうかがってみると、あまり違和感はなかったようなのです。そんなものなのですね。それもライブの魅力でしょう。「お産を思い出して、感動して泣きました」と複数のかたがおっしゃってくださいました。であれば、私もあんなにあせったり心配したりしないで、歌と写真の共演を、もっと堪能すればよかったと思ったことでした。

そんなことも含めて、忘れられないすてきな夜でした。当日の会場には重子さんのファンらしきおじさまたちも多数来場されていました。こんな機会でもないとお産に縁はなさそうなかたたちにも、お産の魅力を実感していただけていたらよいなと思っています。
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2006年 2月 [平成18年12月9日]
2月 塗師の家のお正月飾り (拡大)
お正月の輪島旅行について、お話しします。年末年始はお産を少し休ませていただき、元旦をこの家で迎えたあと、能登半島の輪島で3日間の休暇を過ごしました。よりによって寒いときに、わざわざ寒いところに出かけるのかといぶかしく思われてしまうかもしれません。事実、今年のお正月、輪島はずっと雪、ときに吹雪混じりでした。

輪島に明治時代の塗師(ぬし)の家が保存されています。正確に言えば、昭和の時代の終わりに廃屋になっていたものが、平成の時代になって修復・復元された家です。一般公開はされていませんが、希望すれば見学させていただくことができます。

私はぜひ一度この家を訪ねたくて、この数年ずっと輪島行きを願っていましたが、なかなか機会がありませんでした。念願叶って訪れた塗師の家は見事というほかなく、それを進化した形で復元し、維持しておられるのはすばらしい人たちでした。能登と輪島の文化の気高さに触れ、私はいまだ感動の余韻の中にいます。

塗師の家の復元を試みられたのは、輪島塗漆器製造販売元・輪島屋善仁(わじまやぜんに)さんの第8代のご当主である中室勝郎さんです。つまり明治の時代であれば塗師の親方にあたるかたです。詳しくは輪島屋善仁さんのホームページをご覧ください。

塗師の家のページには、メニュー内の「漆の旅」から飛ぶことができます。このページでは豊富な写真とともに、復元のいきさつも知ることができます。中室さんには、ご著書「漆の里・輪島」(平凡社、1997)があり、塗師の家のほか、さまざまな能登の文化を知ることもできます。うるしの木が20年育ち、ウルシを採れる大きさになったところで、一夏にわたり、幹に少しずつ傷を付け、その樹液であるウルシを採る、採れるのは1本からわずか150グラム程度にすぎないけれど、するともう、その木は生きられないので切り倒してしまう。そして倒された木の根っこから新しい若木が育ち、倒された木は漆器にそのいのちを移して生き続けるなどのお話は、たいそうせつないけれども、示唆に富んでいます。

輪島屋善仁さんの漆器との出会いは、6年前にさかのぼります。明日香医院の助産師が金沢で開催された助産関係の学会で研究発表をすることになり、私も日帰りで付き添いました。彼女の発表は午後の最後に予定されていたため、私は時間まで学会場を抜け出すことにしました。兼六園を訪問し、その後賑やかな香林坊の商店街をそぞろ歩いていて、この店の作品に出会いました。

もともと器はとても好きです。大好きな器とともに暮らすことはとても幸福なことだと思っています。そして次第に古い器に魅せられるようになりました。古いものほど美しいのはなぜだろう、作り手のこころが純粋だったからなのかしらと思っていました。

金沢に出かけた当時、明日香医院で使う大ぶりのお椀を探していました。最初は古いもので探していたのですが、ちょうどよいものがなかなか見つかりません。当時の私には、輪島塗に対して値段が高い、なんとなく華美というイメージがあったのですが、時間もたっぷりあったので、観光客の気楽な気分でお店をはしごして回りました。

そして、何軒目かで輪島屋さんの支店に入りました。この店の器は、それまでの店のものとはまったく違いました。とても興奮しました。

お値段は手軽とは言えなかったので、長い時間逡巡したあげく、清水の舞台から飛び降りる気持ちでお椀を6つ求めました。それほど魅力的でした。その後、明日香医院で使っている塗りものを修理していただいたり、お盆を作っていただいたりしています。

今回の旅行では、塗師の家のほか、輪島屋さんの工房を見せていただいたりもしました。輪島漆器は、作業工程によって仕事が分業化され、それぞれを専門とする職人さんがいます。岩手県の輪島屋さん専属のうるしの山でウルシを採る人、ケヤキなどの木材を加工して木地を作る人、ウルシの下塗りをする人、補強のための布掛けをする人、表面を削って整える人、塗師倉と称するホコリが入らない作業場でウルシの上塗りをする人、絵付けをする蒔絵師さん、上塗りの漆器表面にノミで傷をつけ、そこに金粉をウルシで接着して絵柄を作る沈金師さんなど、それぞれが十分に機能してはじめて、ひとつの作品ができます。沈金師さんに、にわか弟子入りをさせていただけるコーナーもあり、小さな作品ができあがる楽しさも格別でした。漆器美術館で江戸から昭和初期にかけての日本の漆器の最盛期といわれる時代の作品を見ることもできました。

2月 冬の千枚田(拡大)
吹雪の曽々木海岸で、波の花を見ました。波の花は、石けんの泡のようにふわふわしたものが海岸の強風に舞い、まるで花のようだと名付けられた冬の能登の風物詩です。これは海中に浮遊する植物性プランクトンの粘液が厳寒の荒波にもまれて泡だったものだそうです。強く海から吹きつける風に、海に注ぐ滝の水が舞い上がる光景も印象的でした。宿の窓の外には日本海が広がっていて、夜通し波の音を聞いていました。ほんの少しですが、能登を身体で感じることができたように思います。

2月 源義経が矢を射った穴と言われる窓岩と波の花 (拡大)
今回の輪島への旅行で、輪島屋さんの漆器作品の魅力の背景が私にもようやくわかりました。中室さんは、現代におけるもの作りは、歴史を越えて最良のものを作らなければ意味がないとおっしゃっています。その作品は、その気迫、気概、志、そういった精神作用のたまものであったのでした。そして、その親方の気迫をかなえるだけの職人さんがそろっていらっしゃったのでした。ありがたいことです。その器を使い次の世代につなぐことは、古い器をほんの少しの間お預かりして使わせてもらっていることと同様、価値ある幸福と知りました。

ところで、仕事を離れる時間を持ちたくて出かけた旅先で私が思うのは、結局お産のことばかりでした。旅先で出会ったことがらは、仕事における私自身の立ち位置を再確認させてくれました。

お産をとりまく状況の悪化は、輪島も同じでした。輪島市は過疎化の道をたどっているとのことで、周辺の町を合併して人口は3万人を越える程度だそうです。輪島には輪島市立病院という総合病院がありますが、昨年の春、たった1名いた産科医が金沢大学に引き上げてしまい、また市内に2軒あった産科開業医もお産を止めたため、輪島市内ではお産ができなくなってしまいました。市が金沢大学に陳情の結果、4ヵ月後に1名が再派遣され、お産は再開されました。病院のホームページによれば分娩数は年々減少し、平成16年は160件くらいでした。人口3万人に対し出生数160件は少ないので、高齢化も進んでいるのでしょう。

そして、子どもが減ると同時に、漆器の職人になる人も激減しているそうです。これからはもっと減るでしょう。自然の森が減るにつれて国産のウルシの生産量も激減しているそうです。滅亡の危機に立っているという点では、輪島塗も産科も同じだと思いました。

2月 海からの北風のため、吹き上げられる垂水の滝(拡大)
現在、自然なお産を支えることは、さまざまな理由からとても困難です。輪島で感じたことは、これは、ただ産科医療の問題ではないということでした。産科医療だけを論じれば解決策はどこにもなく、閉塞感を募らせるしかありません。けれど日本全体の流れの中で起こっていることとわかったら、現実は見据えていくけれども、もう嘆くのは止め、私自身の行き方やあり方の中に戻っていく、明日香医院が明日香医院として存在できるよう、そのことだけを求めていくしかありません。したがって、日々、できるだけの仕事をしていこうとあらためて思うことができました。それは実にシンプルな結論でした。

輪島のお菓子丸柚餅子は、冬に似合うお菓子です。柚餅子をかじりながら能登の海を思い出し、忘れることのできないすばらしい時間と自らの思いを反芻しています。

なお、輪島屋さんは、昨年金沢の店を閉じ、銀座に支店ができました。東京でもその作品に触れることができます。機会があればぜひどうぞ。
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2006年 1月 [平成18年1月11日]
1月 スタッフ全員で。 (拡大)
新年あけましておめでとうございます。

昨年は年越しの大変なお産で新年を迎えましたが、今年は静かに新しい年を迎えています。

新聞を読んでいると、せちがらいことや恐ろしいことばかり、人間の自分勝手な欲望やわがままの果ては知れず、この国の行く末は見えません。あるいは昨年の「お産の家便り9月」でも書いたように、産科医療の現状は厳しく、出口は見えません。

それでも、子どもはまっさらな未来です。産む人が本来の生理的力で産むお産、人間らしいあたたかくておだやかなお産を支えることが、子どもたちの未来につながると信じています。明日香医院の今年のキイワードは「希望」と「祈り」。つらいことも少なくありませんが、どんなときも、新しいいのちのまわりは、たくさんの嬉しいことや幸せで満ちています。

そんなわけで、スタッフ一同、この一年も真正面からお産に向き合う所存です。よろしくおつきあいをお願いします。

「お知らせ」にも掲載していますが、きたる1月26日、ヴォーカリスト鈴木重子さんのコンサート「風のフォーラム」にゲストで出演することになりました。宮崎雅子さんの写真80枚ほどを構成し、重子さんの歌に乗せて「お産のフォトストーリー」としてご覧いただきます。また「地球交響曲第五番」から明日香医院で撮影した場面を中心に再編集していただいた「誕生編」もご覧いただく予定です。

鈴木重子さんは私にとって学部は異なりますが大学の同窓というご縁からお名前を知り、何枚かのCDを楽しんで聴いていました。その後、重子さんのマネージャーさんが明日香医院の妊婦さんになられるご縁があって、驚きました。

ちょうどそんな頃、宮崎雅子さんの写真を歌に乗せて見ていただく「フォトストーリー」作りに凝り始めました。いろいろな歌手のさまざまな歌を合わせてみて試作したのですが、そんな中で重子さんのやわらかいうた声が、なぜかなんともぴったりと似合います。そこで、重子さんのご了解もえた現在は『My Best Friends』というアルバムから『Amazing Grace』 ほかの3曲が定番になっています。

1月 可憐な侘び助椿(拡大)
そして、今回のコンサートでは、なまの歌声に乗せてフォトストーリーを上映することになり、とても楽しみにわくわくしています。チケットにはまだ余裕があるようですので、ご都合のつくかたはぜひご来場ください。

白い一重の侘び助は、私の大好きな椿です。年末から可憐な花を咲かせています。近づくと、とても淡くてすてきに香ります。
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